項目 |
画像 |
説明 |
宿場 |
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主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱うため設定された町場をいう。宿場には人馬の常備が義務付けされ、本陣や旅籠も置かれた。現代でいうとまさに駅のようなところ。
(写真:甲州街道−台ヶ原宿) |
本陣 |
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参勤交代のときなど、大名が宿場において泊まるところ。特に宿代などはなく、謝礼という形で支払われる。
(写真:暗超奈良街道−追分本陣) |
脇本陣 |
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参勤交代がかち合ったときなど、本陣が開いていないときは、大名はこちらに泊まる。
(写真:甲州街道−勝沼宿脇本陣) |
旅籠 |
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一般旅行者が泊まるところ |
茶屋 |
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休憩場。お茶や食事などがでる。
(写真:甲州街道−桃の木茶屋跡) |
問屋場 |
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人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところ。公用で旅をするものなどは、ここで宿や人馬を調達することができた。
(写真:東海道―平塚宿の問屋場跡) |
高札場 |
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幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所
(写真:甲州街道−小原宿の高札場) |
枡形 |
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宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所。外からの敵を迎え撃つためにそうしている。
(写真:甲州街道−蔦木宿の枡形) |
関所 |
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徴税や検問のための施設。通行には手形がいる。
(写真:甲州街道−小仏関跡) |
一里塚 |
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街道の両端に一里(約4KM)ごとにおかれた。でも両側におかれないこともあるし、あったとしても今ものこっていることはすくない。そこにはよく榎などの木が植えられた。もちろん基点は江戸の日本橋。
(写真:甲州街道−御射山神戸の一里塚) |
追分 |
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道が二つに分かれる場所をさす。街道と街道が分岐するところには、「左〜〜みち、右〜〜みち」という道標が立てられたことが多い。
(写真:八王子の甲州街道と陣場街道の追分) |
常夜灯 |
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一晩中つけておかないといけない灯篭。つくるには奉行への届出が要る。
街道の道標にもなっている。
また、東日本では秋葉、西日本では愛宕という防火の神さんが刻まれていることが多い。 |
見附 |
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見張り番が置かれていた城門などの施設。東海道では、宿場の両端におかれた。江戸側を江戸見附、京都側を京(上方)見附という。
(写真:甲州街道−四谷見附跡) |
元標 |
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「どうろげんぴょう」と読む。道路の路線の起点や終点や経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置された |
馬頭観音 |
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観音菩薩のなかで唯一憤怒の形相をとる。近世以降は、馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音像を建てることが多くなった。 |
庚申塔 |
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人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで宴会などをする風習があり、それを記念に立てられた。 |
廿三夜塔 |
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月待のひとつで、二十三日夜に集る講。三夜様とか三夜供養とも呼ばれている。近世農村には濃厚に分布していた。二十三夜にまつる神仏は月天子・月読尊・勢至菩薩などがあるといわれている。ほかに十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜がある。 |
道祖神 |
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路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、古い時代のものは男女一対を象徴する ものになっている。本来は塞座黄泉戸大神がその神であるが、庚申塔と合体し、三猿と合体し、猿の連想からか猿田彦神がその神様とされることもある |
権現 |
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日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説の考え方に基づいた神号である。 |
梵字 |
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インドの昔の字。仏教寺院で使用され、梵字は単なる文字ではなく、それ自体に力がある霊的な神聖文字と考えられた。道標や石碑などによく薬師如来をあらわす梵字などが彫られている。
(写真:道標に刻まれている薬師如来の梵字) |
松尾芭蕉 |
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江戸時代前期の俳諧師である。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
弟子の河合曾良を伴い、江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。その他、そこらじゅうを旅しており、そこらじゅうに碑がある。幕府の隠密説もある。 |
明治天皇御小休所跡 |
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電車がないから今と違いあるいて天皇はいろんなところに行幸したようで、休憩されたところに碑があるんやけど、いたるところにある。 |
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